投資におけるリスクの本質と心理学。大胆不敵な投資家、あぁ無常・・

リーマン・ショックで最も稼いだアメリカの運用会社として知られる逆張りファンド、オークツリーの共同創業者、ハワード・マークスさん著、「投資で一番大切な20の教え 賢い投資家になるための隠れた常識(2012)」を読みました。

主に個別株や、タイミング売買をする人が知るべき投資の考え方にについての本でしたが、インデックス投資家でも十分に役に立つ内容でした。具体的なデータや方法はなく、投資哲学的な内容なので応用するのは難しそうではありますが、それでも非常に面白かったです。

例によって、個人的に気になったところをまとめます。

 

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 経済学と投資のアート性 

経済学と同じく、投資においては科学よりもアートの要素が強い。つまり、理論整然とはいかないのである。

今日、心に留めておくべき要素のひとつは、経済学が純然たる科学ではないということだ。科学においては、管理された環境で実験が行われ、過去の経験が信頼性をもって再現され、因果関係が確立されうる。これらの点を考慮すれば、経済学を科学と呼ぶこと自体、あまりふさわしくないのかもしれない。

 

投資は科学であるのと少なくとも同程度にアートでもある。だから決まった型にはめられると説くつもりはさらさらない(本書に限らず、いつも私はそうだ)。むしろ、投資アプローチは固定化したり、機械的に当てはめたりするのではなく、直感的に決め、状況に応じて適応させていくことが肝心なのだと声を大にして言いたい。

 

 効率的市場仮説について 

投資家はどんな些細な新情報も手を抜かずに吟味するため、資産価値にはその情報の重要性に関するコンセンサスの見方が即座に反映される。この手については私も異存はない。しかし、コンセンサスの見方が常に正しいとは思わない。2000年1月、ヤフーの株価は237ドルだったが、2001年4月には11ドルになっていた。どちらの時点でも市場が正しかったというのは非現実的な話だ。少なくとも一方の価値が間違っていたと言わざるを得ない。だからといって、多くの投資家がその市場の間違いに気付き、それに乗じることができたわけではない。

効率的市場の価格が既にコンセンサスを織り込んでいるのだとすれば、コンセンサスと同じ見方をする者は平均的なリターンしかいられない公算が大きい。市場に勝つには、コンセンサスとは異なる独自の見方をしなければならない

 

効率性と非効率性をめぐる大論争に関して、私はこういう結論を出している。完全に効率的、あるいは完全に非効率的な市場は存在しない。要は程度の問題である。私は非効率性を生み出し得る機械を高く評価しているが、一方で、市場の効率性の概念も尊重している。そして、主流の証券市場は、儲かりそうな銘柄を探し出すのがほとんど時間の無駄と言えるほど、効率的になりうると強く感じている。

最終的に、私は一風変わった考え方にたどり着いた。効率性は普遍的ではないため、素晴らしいパフォーマンスを上げることを諦める必要はない。一方で、こうも言える。効率性は法律用語で言うところの「反証を許す推定」(あることについて、それを覆す証拠が出せない限り、正しいと推定すること)である。したがって、効率的でないと判断するのに十分な証拠がない限り、市場は効率的であり、平均を上回るパフォーマンスを上げることはできないできないのだと推定すべきなのだ。

 

 投資に重要なこと 

投資の世界で最も重要な学問は会計学でも経済学でもなく、心理学である

カギとなるのは、いま現在、投資をしたがっている人としたがっていない人について知ることだ。将来の価格変動は、投資したいと思う人がこの先増えるか減るかで決まる。

投資は一種の人気投票であり、最も危険なのは人気の絶頂にある資産を買うことだ。ピーク時にはあらゆる好材料や好意的な意見が価格に織り込み済みであり、それ以上新しい買い手は現れない。

最も高い収益性が見込まれる投資をするには、誰も欲しがらないものを買えば良い。時間とともにその資産の人気や価格が変わるとしても、上方にしか行かないからだ。

 

絶対に理解しておくべき点は、ファンダメンタルズに基づく価値は証券を買う日の価格を決定する要因の一つにすぎないということだ。心理とテクニカル用意も味方に付けられるよう、心がけなければならない。

 

 投資における本当のリスク 

資本市場理論を構築した学者らによれば、リスクとはすなわちボラティリティである。ボラティリティは投資の不確実性を示すからだ。このリスク定義について、私は異議を唱える。

これは私の考えだが、学者は意識的に、あるいは無意識のうちに、便宣上の理由からボラティリティをリスクの代名詞に決めた。過去の実績値や将来の推定値として示すことができる客観的な数字が必要だったからだ。ボラティリティはこうしたニーズに適うものであり、その他のリスクを示す指標の多くはそうではなかった。ただここで最大の問題は、ほとんどの投資家が気にしているリスクはボラティリティはではないと思えることだ。

いや、ここで断言しよう。「リスク」とは何よりもまず、資金を失う可能性のことである

 

私は最近、投資における主要リスクを「損失を出すリスク」と「機会を逸失するリスク」の二つに集約した。そのうちどちらをどちらかをほぼ排除することは可能だが、両方なくすことはできない。理想的な世界では、投資家はこの二つのバランスをとるだろう。だが時期によって、振り子が軌道の一端に達する。つまりどちらかが支配的になる状況が生じるのだ。

 

 リスクの挙動 

「リスクが高すぎると皆が言う物は、どんな価格であろうと買わない」。私がこの世界に入ってから、幾度となく聞いた言葉である。この言葉が、これまでつかみ取ってきた最良の投資機会を私にもたらしてくれた。

実際、人々はリスクに関してリターンの場合と同じくらい過ちを犯す。「手を出すには危険すぎる」というコンセンサスが幅広く形成されてる時、そのほとんどは間違いである。大抵の場合、真実は全く逆なのだ。

投資リスクは、最もリスクがないと思われてるところで最も高くなっている、と私は確信している。逆もまた然りだ。

・誰もが高リスクと考えている資産の価格はたいてい、不人気のせいで全く危険ではない水準まで低下する。否定的な見方が広がれば、それは最もリスクの低い資産になりうる。価格に楽観的な材料が何一つ織り込まれていないからだ。

・そして70年代の「ニフティフィフティ」投資家の前例が示すように、誰もがリスクがないと信じている資産の価格は大体、極めて危険な水準まで吊り上げられる。投資家がリスクを恐れていなければ、リスクを取ることへの見返り、つまり「リスクプレミアム」が求められたり、提供されることはない。従って、これは最もリスクの高い資産となる可能性がある。

 

こうしたパラドックスが生じるのは、ほとんどの投資家が価格ではなく資産の質をリスクの大きさを判断する材料としているからだ。だが、質の高い資産が高リスクに、そして質の低い資産が安全になることはありうるのだ。問題はどんな価格で買うかだ。誰もが飛びつくような意見は、リターンが低くなる可能性だけではなく、リスクが高くなる可能性をも生み出すのである。

 

 投資の確かなサイクル 

証券市場における地合いの動きは、振り子の振動によく似ている。振り子の起動の中心点は「平均的な」位置と呼ぶに相応しいが、実際にその場所に振り子がある時間はほんの一瞬である。そもそも、振り子は軌道の一端からもう一体とほぼ休みなく揺れ動いている。そして一端に近づけば、遅かれ早かれ中心点に向かってまた動きが反転することは避けられない。実のところ、一端に向かう動きこそが、もう一端へ揺れ戻るためのエネルギーを生み出すのだ。

投資の世界でも、市場は

・陶酔感と停滞感の間を

・好材料への歓喜と悪材料に対する脅迫概念の間を

・そして、過大評価と過小評価の間を

振り子のように揺れ動いている。

 

こうした振動は投資の世界に見られる極めて確かな特徴の一つである。

市場はその時々で極端な様相を見せる。投資家は熱狂的な買い手になったかと思えば、恐怖に震える売り手になり、慌てて買いに行ったり、売りに走ったりする。相場は加熱したかと思えば冷え込み、価格は持続不可能なほど高くなったり、滑稽なほど安くなったりする。相場や、投資家の姿勢や行動が、振り子の「幸せな中心点」に位置してる時間は間違いなく非常に短い

 

 無常と投資 

1960年代半ば、ウォートン・スクールの学部生は、経営学以外の副専攻科目の履修を義務づけられていた。そのため私は日本学の5科目を受講した。意外にもその勉強は私の学生生活のハイライトとなり、やがて私の投資哲学に大きな影響を及ぼした。

古典的な日本文学の中で大事にされていた価値観に「無常」がある。私の理解では、無情の古来の定義は「法輪の回転を知る」であり、変化や栄枯盛衰は避けられないと受け入れることを示している。言い換えると、無常とは、サイクルが上下動し、物事が現れたり消えたりし、環境が我々のコントロールがきかない形で変化することを意味している。だから、我々はそれを認識し、受け入れ、そうした変化に対処や対応していかなければならない。これはまさに投資の本質ではないだろうか

過去は終わったことであって、やり直しは効かない。その過去があったから、今、我々が直面している状況が生まれたのだ。我々には、現状を認識し、現状で可能な最良の判断を下す事しかできないのである。

 

 今どこにいるのかを感じ取る 

この先どうなるのかは知る由もないかもしれないが、今どこにいるのかについては、よく知っておくべきだ。

以下のような点を考えると、市場サイクルは投資家に厳しい試練を課しているといえる。

・市場サイクルの上下動は避けられない

・市場サイクルは投資家のパフォーマンスを著しく左右する

・市場サイクルの期間、そして特にタイミングは予測不可能である

 

つまり我々は、絶大な影響を及ぼすが、あらかじめ知ることは難しい力に対処しなければならない。では、そのためにすべきことは何か。それは、ただ単に自分が今サイクルのどの位置に立ってるのか、そして、どのような行動を起こすべきなのかを突き止めようとする、である。

今、サイクルどの位置に立っているのかが付き止められれば、次に何が起きるのか正確にわかってると言っているのではない。しかし、現状を理解すれば、将来の出来事とそれについて何をするべきかという点に関する貴重な洞察が得られる。我々にできるのは、せいぜいその程度のことだ。

 

 運の影響力を認識する 

時として、起こりそうもない、あるいは不確実な結果が起きるという危険な賭けをした者が、天才のように評価されることがある。だが、それは幸運で大胆だったがために実現したのであり、スキルがあったからではないと認識すべきだ。

ランダム性(または運)は人生の成り行きにおいて、非常に大きな役割を果たしている。ランダムな事情によって生じた結果は、そうでない場合の結果とは違うものとみなすべきだ。

 

決断が正しかったのかどうかを結果から判断することはできない。にも関わらず、人々は結果で評価を下す。そもそも未来は未知なのだから、良い決断とはそれを下した時に最適だったものである。したがって、正しい決断が良い結果に繋がらないことは多々あり、逆の場合も同じことが言える。

 

 儲けと損失回避のどちらを優先するか 

経験豊富な投資家がいる。大胆不敵な投資家がいる。しかし、経験豊富で大胆不敵な投資家はいない。

 

儲けと損失回避の両方を最大限に追求することはできない。各投資家はこの二つの目標に関するスタンスをはっきりさせる必要があり、そのためには、どうバランスをとるのが妥当か、決めなければならない。この決断は意識的、そして理性的に下すべきである。

攻めの投資で行くか、守りの投資で行くかという選択は、投資家がどれだけのことを自分でコントロールできると考えてるかによる。私自身は、投資にはコントロールできない要素が数多くつきまとっていると見ている。

 

 Tochiの勝手な感想 

大胆不敵な投資家は経験豊富になり得ない、つまり長くは生き残れないと言う事か・・(汗)

 

値動きの大きさを「リスク」と定義した投資理論には前々から全く納得がいかなかったが、投資家にとっての本当のリスクとは「損をするリスク」「乗り遅れるリスク」だというのは非常に納得がいきました。

しかも、特にこの「乗り遅れるリスク」を避けたいという欲求はなかなかどうして抗い難く、何度となくはまり、「損をするリスク」を高めてしまってますねぇ、実際に・・。

 

また、「安く買って高く売る」、つまり「悲観で買って楽観で売る」重要性や、投資家が十分にリスク回避的でなければリスクプレミアムが提供されることはない、つまりリスクは高いけど低いリターンだって十分にあり得るという点も、分かっている様でいて、しかし全く実行に移せていない事に改めて気が付かされました。

 

そしてよくよく思い返してみると、インデックス選びはリターンの最大化しか考えていないという・・。ナスダックブル3倍(TQQQ)に金融ETFブル3倍っ(FAS)!

もう乗り遅れても、リターンが(多少)低くてもいいから、是非とも大損だけは避けたい!のんべんだらりと生きていきたい!そんな気持ちにさせられましたとさ 😭 時既に・・・

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